『趣味の郷土 羽ノ浦町』(1959年)には、下記のように、もう少し詳しく「和耶和耶の神事」の様子が記されています。
本社毎年正月七日夕昏の行事として、能路寺住僧並六坊(平安寺・明覚院・宝竜寺・大聖院と大林村の竜蔵院・櫛淵村の清学院)の山伏が社前に於て法楽読経し、法螺を吹き立てると、群集の老少一時に、わやわやわやと声を上げること再三度、此の声を聞いて氏子の家々等しく豆打して追儺するが正式で、此の惟神の神話と遺風は自分達の幼少の時にも耳にした所で、旧慣を重んじた氏子の中には、明治四十三年本社が羽浦神社に合社するまで節分の豆打には本社前へ行って行われていた。
能路寺(現存します)は和耶神社の別当として密接な関係にあり、位置も近接していました(和耶神社は能路寺山の西南端にありました)。
「和耶和耶神事」も能路寺の住僧が主導して、付近六坊の僧とともに実施していたことがうかがえます。
なお、祭祀には修験(熊野修験)の影響が強く感じられます。
山伏の読経の後ホラ貝が鳴り響くと、群衆が「和耶和耶和耶」と一斉に叫び、その声を聞いた氏子が豆まきをする。
「和耶和耶和耶」ということばは、神威を讃える呪言であるとともに、一種の除災の呪言ととらえるべきでしょう。
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